礼拝 4月 21日(日)午前 10時15分〜
聖書 マタイによる福音書 第9章 27〜31節
説教 「私にできると信じるのか」
八束 清 牧師
「私にできると信じるのか」 八束 清牧師
「私にできると信じるのか」 八束 清牧師
「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。そう叫ぶ二人の盲人に対し、イエスさまは外では応じません。家へと入ってゆき、その中で二人の求めに応えます。これは「山上の説教」での教えと重なります。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる(6:6)」。
私の祈りにイエスさまが伴います。ですが私こそが神さまへと面と向かって祈らねばなりません。何か私の代役を立てて自分の求め通り応じさせようとするのではありません。そんなことでは神さまが満たそうとしておられるものを頂けません。
また、私の本当の求めというのは自分にも隠されています。わたくしたちは食べ物を選り好みして「これはいらない、あれが必要なのだ」と訴えることがあります。ですが親は本当に必要な食べ物をこそ与えます。不承不承親に従って食べますが、後にようやくその価値や大切さが分かってきます。
二人は自分の願望をイエスさまに投影し、誤った認識で訴えます。それでも、この主は二人の求めを受け入れてくださいました。これからイエスさまは十字架へと向かいます。二人はイエスさまの死と復活を知ることで、神さまがこの方をメシアとして与え、私の贖い主となられたことを、知るのです。