教会からのお知らせ

礼拝

2024.04.28

礼拝 4月 28日(日)午前 10時15分〜
聖書 マタイによる福音書 第9章 35〜38節 
      

説教 「神が見ておられる収穫」
        八束 清 牧師

イエスさまは群衆ぐんしゅうをごらんになってふかあわれまれました。「ふかあわれむ」とやくされる言葉ことば内臓ないぞう意味いみ人間にんげんもっとふかいところまでうごかす感情かんじょうあらわします。同情どうじょうしてこころうごかされる感情かんじょうですが、今回こんかいはどちらかといえば、「それではいけないではないか」といういきどおりです。イエスさまは群衆ぐんしゅうほうってけず、このもの責任せきにんってゆかれるのです。

ぬしのいないひつじのような群衆ぐんしゅうは、自分じぶんはそうともらずそれでいとおもんでいます。かみくになど必要ひつようありません。そこでいただくものをまだらないからです。人間にんげんがわからの必要ひつようは、かみさまがあたえようとしておられるものにたっしません。ですから、群衆ぐんしゅうかみくにもとめないのは当然とうぜんだとえます。

イエスさまは、このあと十字架じゅうじか背負せおってこのもののための身代金みのしろきんとなられます(20:28)。そして、このもの羊飼ひつじかいとしての責任せきにんたしてゆかれます。イエスさまはひつじのためにいのちをかけ、かみさまのものとして一人ひとりひとりをもどし、かみさまのかおまえものとしてゆかれるのです。

天地万物てんちばんぶつつくぬしであるかみさまは、おつくりになった一人ひとりひとりをご自身じしん収穫しゅうかくとして御覧ごらんです。イエスさまによってかみのものとされ、かみさまのかおまえみのりをもたらすをごらんになっておられます。そこにってこそ、わたくしたちはかみにかたどってれたものとして真実しんじつきられるのです。


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